聖書日課ブログ「聖書からの恵み」

病めるときも、健やかなる日も。嬉しいときも、悲しみの日も、『聖書』を心に。

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【重要なお知らせ】

「聖書からの恵み」

皆さまから支援され支えられ

これまで『いのちのことば社 デボーションガイド:マナ』を用いて

聖書の神様の恵みを分かち合ってまいりましたが

今一度、立ち止まって

皆さまと分かち合いをするよりもまず

自分自身が神様の聖書からの恵みを

しっかりと受け留めて心に刻み、日々を歩んでいく必要があると思わされました。



ですので

このブログは消滅はいたしませんが

しばらくの間は、自己内省のために

「神様と向き合い、聖書からの恵みを自分自身で深く味わう」

当面の間、お休みさせていただくことに致しました。



メールフォームからのご連絡などは

随時、チェックをいたしますので

引き続き、共に祈り合ってまいりましょう。


ブログは、しばらくの間、お休みとなりますが、皆さんとご一緒に

『いのちのことば社 デボーションガイド:マナ』で学びを続けられたら

幸いに思います。



2012年2月 高橋 美穂
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「私は繋ぎ役にしか過ぎず、聖書の神こそが全地の支配者」

デボーションガイド「マナ」 聖書箇所イザヤ書23:1 23:6-11 23:15-17

「私は繋ぎ役にしか過ぎず、聖書の神こそが全地の支配者」



2012年明けましておめでとうございます。

様々に事柄に追われている間にアッという間に新しい年になってしまいました。

さて、この聖書箇所からは教えられること多く、自戒の念を新たにさせられたところです。


新年最初のみことばは、いきなりここから始まりました。

『ツロに対する宣告。・・・泣きわめけ。ツロは荒らされて、家も港もなくなった、と』


この『ツロ』という街は当時、国際貿易になっていたような繁栄した街でした。

その経済によって、ダビデ王国も支えられたといわれているほどです。

ところが、この街の人々は、その繁栄の源は神様であることを、いつしかなおざりにしてしまいました。

自分たちの頑張った結果が全ての繁栄のもとだと勘違いしたままに

神を土台とせずに、自分たちの活動を土台として過ごすようになったようです。



このみことばに私の胸は強烈に刺されました。

じつは、私は大きなヴィジョンに向かって着々と歩みを進めていたのです。

「神様のために何かをしたい」・・・動機はそれだけでした。

けれども次第に私は『自分の考え』であれやこれやとヴィジョンを膨らませてしまっていました。

神様のために何かしたい

・・・その動機は正しくても、私は自分が町と町、人と人を結びつけさせていただく

私は単なる結び目にしか過ぎないということ・私は繋ぎ役にしか過ぎない」ということを

なんとなく忘れて傲慢になっていたように思わされました。



ツロの街が荒らされて滅びるのは「傲慢ゆえ」と聖書に記されています。

『・・・泣きわめけ。これが、あなたのおごった町なのか。

その起こりは古く、その足を遠くに運んで移住したものを』(23:6-7)



その街には伝統もある古くからの街。遠くの地域とも貿易をして栄えた街。

しかし、その『おごった町』=『傲慢な町』として

今や『泣きわめけ。荒らされてなくなった、と』(23:1抜粋)



新年の最初の日にあたり、私は自戒して身を引き締めます。

私は単なる結び目にしか過ぎないこと。私は繋ぎ役でしかないことを

今ひとたび覚えて、聖書の神様こそが全地の支配者であられることを

心にしっかりと刻んで新年を歩みます。



自分を誇るとき、ツロの街のような滅びが待ち受けていて

神様を土台に歩むときに、祝福がもたらされるのだと信じます。

栄光は、唯、主なる神様のみ
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「ホサナ・ホサナ〜へりくだる心と姿〜」

デボーション・ガイド「マナ」 聖書箇所  マルコの福音書11:1-11


ホサナホサナ〜へりくだる心と姿〜」


ずっと忙しくしていた。時間に追われていた。

父の介護は取り合えず母の帰宅で終えることが出来た。

やっと時間が・・・と思ったら風邪を引いてしまった。


忙しく慌しい中でも聖書を読み続けたが、書き留めたりする心の余裕はなく

もうひとつ私は別のブログを書いているのだが

そちらは暮らしの中での徒然なる出来事を書いているので

ササッと書いてはいたが、みことばをブログにもノートにも記さないまま

ただ、ただ慌しく日々は過ぎ去っていったこの頃だった。

慌しい忙しさの中で思った。「私はがんばってる」

食事制限のある父に対しての慣れない食事作り。

私たち夫婦の食事とはまた別に作るのだから、容易なことではなかった。

「がんばってる」と心の中で思っていた。



このところの箇所はイエス様のエルサレム入城のシーンである。

小さな雌のろばの子の上に乗ってイエス様はエルサレムへと入られた。

人々は「ホサナホサナ」と叫んで出迎えた。



救い主であり、真の意味で王であられる神のひとり子が

小さなろばに乗ってやって来たのだ。

なんというへりくだりの姿であろうか!!

その姿には「自分がみんなを救ってやるぞ」などという様子は全く無い。

へりくだって、やって来られたイエス様は、やがて人々から見捨てられ

極刑の十字架に掛かって人々の、そして私の罪の犠牲になってくださった。

「わたしは、あなたがたのために、がんばってあげます」・・・そんな姿は無い。

私はこの箇所を読んで恥じ入る思いになった。




ホサナ』とは単に賛美の言葉ではなく「どうか私たちを救ってください」という意味がある。

(詩篇118:25参照)

今、私も心を鎮めて、静まって、へりくだることをしなければならない。

そして

「私を憐れんでください」と困窮している状況や胸の内を主に告白しよう。



がんばっていると思っていた自分に恥じ入る。

へりくだる姿が私には足りなかった。自戒しよう。



祈り

「主イエスさま。あなたは真の王であられたのに

へりくだった姿で、この地上においでくださいました。

人々のために何かしてあげるぞ、などという態度は一切なさいませんでした。

私は、へりくだる姿に欠けていました。どうか、今、私もホサナホサナと主を仰ぎ

主の御前にて静まるときを与えてくださったことを感謝いたします。

主イエスさま。あなたのお姿のように、へりくだる者とさせてください。

尊いイエスさまの御名前によって祈ります。アーメン」




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「あなたがたは神の神殿」

デボーション・ガイド「マナ」 聖書箇所  コリント人への手紙第一3:10-17


あなたがたは神の神殿



このような罪にまみれた者をも神様はイエス・キリストの十字架のゆえに「聖なる者」と呼んでくださる。

与えられた神の恵みによって賢く家を建てるようにとパウロは述べる。

『与えられた神の恵みによって・・・どのように建てるのかについては

それぞれが注意しなければなりません。』(10節)



コリントの教会には分派が幾つもあったと思われる。

しかしそれは、正しい主張を貫くためではなくて、主導権争いだった。

神の働きは一つ、教会は一つである。教会形成は一致して行なわれていかなくてはならない。

パウロが『私は賢い建築家のように、土台を据えました。』(10節)

こう言っている「土台」は「主イエスの福音」なのである。




このような私にさえも、この箇所では、私を聖なる者とみなしてくださり語りかけてくださる。

あなたは神の神殿だ」と呼んでくださる神様。

聖霊が私に与えられたことによって「神の神殿」としていただいた。

その上、私をしっかりと守り支えてくださる約束までしてくださっている。


『あなたがたは、神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。

もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。

神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です』(16-17節)


神様が私を「神の神殿」とみなしてくださっている。

イエス・キリストを土台として人生を建て上げていこう。

そしてまた神の教会を建て上げる一員とさせていただこう。


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「人の心に重い浮かんだことのないもの〜御子による救いと聖霊〜」

デボーション・ガイド「マナ」 聖書箇所  コリント人への手紙第一2:9-16


人の心に思い浮かんだことのないもの〜御子による救いと聖霊〜


解説(メッセージ)のところから一部分を引用させていただく。

「自分の考えを人に聞いてもらうのは、気持ちのよいものです。

議論好きの人だと、自分の考えの正しさを証明したり、自分の考えが優れていることに喜びを感じます。

・・・でも、それだけにとらわれていると、自分の心が生み出したものだけで満たされていくようになります。

 神の備えてくださったことは「人の心に思い浮かんだことのないもの」パウロは力説しています。

・・・それは福音のことばです。この福音のことばは人間から出たことではなく、

人間が思いつくこともできなかったことばです。

 あなたの心の中には何が満ちているでしょうか。あなたの心が生み出したものでしょうか


(マナ 2011年11/27 141頁参照)




聖書コリント第一2:9

『・・・「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、

そして、人の心に思い浮かんだことのないもの

・・・神の備えてくださったものは、みなそうである。』



私の罪が御子イエスさまの降誕と十字架と復活によって贖われ、永遠の命を得た。

それが「福音のことば」である。

このようにして救われるとは、人の心で計画など出来ない「神様のみわざ」である。

そうして、そればかりではなくて神様は「神様の心」=「聖霊」を私に賜ってくださった。

『神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。

御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。』(10節)



自分の計画や考えが優れていることのように思ってしまうときがある。

そして満足し、その自分の考えに従って行動しようとしてしまう私がいる。

神さまは、私に御霊を与えてくださった。

聖霊を与えていただいたのであるから「自分の考え」ではなく「神の心」を心に満たして

聖霊様の知恵によって行動する者とさせていただきたい。


『ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。』(12節)

この世でも多くの人が、多くの知恵を出し合って

より豊かな社会を築こうとしている。私事に於いても世の知恵が用いられる。

知恵を出し合うのも、心に浮かぶ考えをまとめるのも、それ自体は悪ではない。

しかしながらまずは『神の御霊の知恵』に聞き従うべきことを知らされる。


『御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえます』(15節)


・・・聖霊に満たされて生きていきたいと切に願わされる。
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「恵みと平安があなたがたの上にありますように」

デボーション・ガイド「マナ」 聖書箇所  コリント人への手紙第一1:1-9


恵みと平安があなたがたにありますように


コリントの教会は多くの問題を抱えている教会であったと思われる。

教会内の分裂、主義主張の対立、生活の乱れなど様々な問題があった。

コリントの町は不品行の町としても知られている中で、教会といえども町の雰囲気に流されていたのだろう。

パウロは、そんな問題多きコリントの教会に筆をしたためる。

それが『コリント人への手紙』だ。



コリントの教会は問題が特に大きく多かったとはいえるが

ならば、それ以外の教会には問題は無かったのだろうか。

いや、そんなことはない。

あのペンテコステで燃え上がって誕生したエルサレム教会でさえも、食糧配給のことから始まり

問題は発生している。

教会というところは、恵み・祝福と同時に共に常に問題を抱えながら進んでゆく姿を見る。

それなのに、パウロは問題が大きく多かった有り様のコリントの教会に対して

叱責から手紙を始めてはいない。

不品行がはびこっていたであろうコリントの教会に対しての最初の出だしは

『コリントにある神の教会へ。』と書き始めている。(2節)



神の教会』!!!

問題を抱えているこの教会に対して「神の教会」と呼んでいる。

私たちの遣わされている教会はどうであろうか。

祝福のうちにも、同時になんらかしらの問題もあるかもしれない。

程度の差こそあれ、問題の無い教会など存在しないのではないか。

地上にある教会である限り、問題が生じてしまうのが実情かもしれないし

むしろ、問題があるのは、教会が「生きている教会」だから起こり得るのではなかろうか。

私たちは教会が問題を抱えたときに、あるいは教会の問題に巻き込まれたりするときに

それを批判・非難したり、誰が悪いのかの犯人探しではなくて

それでも「神の教会」と呼ぶべきであり、「生きている教会だからこそ」と

思い直すべきである。



パウロは、この問題大きく多いコリントの教会員に対して祝福の言葉を述べている。

『私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように』(3節)


私たちクリスチャン個々を見ても、欠けのないクリスチャンなどいない

それでも一人一人召し出された者たちである。

聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ。

主は私たちの主であるとともに、すべての人々の主です。』(2節後半)

クリスチャンでも欠けがあり弱さもある。

それでも「聖徒」と呼び合い「聖なるものとされた人」と呼び合おう。



『主も、あなたがたを、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところのない者として、

最後まで堅く保ってくださいます。』

・・・なんという慰めであろうか。

神様ご自身が「キリストとの交わりの中に召した」と語ってくださる。(9節)

『神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、

私たちの主イエス・キリストとの交わりの中に入れられました』(9節)



問題があっても、欠けがあっても、私たちは神様から召された者であることを知ろう。

そして、欠けを責めることから始めるのではなく

互いに「聖徒よ。キリスト・イエスにあって聖なるものとされた人よ」と

声を掛け合い励まし合って、正しい道へと神様から導いていただこう。

恵みと平安がありますように」と具体的な言葉を交わし合い、祈り合おう。



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「私を堅く立たせてくださる方は知恵に富む唯一の神」

デボーション・ガイド「マナ」 聖書箇所  ローマ人への手紙16:17-27


「私を堅く立たせてくださる方は知恵による唯一の神」




ローマ人への手紙は分裂とつまずきを起こすひとたちを警戒するようにと注意の願いを記し

挨拶文で締めくくられる。

『兄弟たち。・・・あなたがたの学んだ教えにそむいて、分裂とつまずきを引き起こす人たちを

警戒してください。彼らから遠ざかりなさい。』(16:17)



私たちは分裂や争いを引き起こす人たちを警戒する必要があると共に

自分自身もまた最初の教えから離れてしまうことのないようにする必要がある。

それらの人たちから遠ざかると同時に、自分自身も分裂を引き起こす要因から避け

みずからを清く保つ必要があることを思わされる。



『そういう人たちは・・・自分の欲に仕えているのです。』(18節)

一見、正しい主張のようにしながらも自分の利益や欲に仕えている人たち。

自分の欲に仕えることのないようにしなければならないとも思わされる。



弱い私ではあるが、私を堅く立たせて支えてくださるのは知恵に富みたもう唯一の神であることを信じて

歩みを続けて行こうと思う。

『・・・奥義の啓示によって、あなたがたを堅く立たせることのできる方、

知恵に富む唯一の神に、イエス・キリストによって、御栄えがとこしえまでありますように。アーメン。』

(16:25-27)
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「望みの神」

デボーション・ガイド「マナ」 聖書箇所  ローマ人への手紙15:7-13



望みの神


12節・13節

『さらにまた、イザヤがこう言っています。

「エッサイの根が起こる。異邦人を治めるために立ち上がる方である。

異邦人はこの方に望みをかける。」

どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、

聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。』





今日の私は少しだけ元気を失くしていた。

父の世話に明け暮れ、家計をやりくりして日々を過ごす。

原稿の〆切りに追われ、こんな暮らしのまま一生を終えたらどうしようかと

そんなことをふと思う。

持っているヴィジョンには遠くはるか未来が見えない。

皆が当たり前のように買っているモノが、我が家では買えない。

当たり前のように、口にしているものを我が家では食べれない。

一度も二度も挫折した人生の設計図。

この世に「希望」や「未来」があるとしても、何故か私だけ我が家だけ取り残されてしまうような

そんな気がして眠れなかったゆうべ。



聖書を開く。

嗚呼!! エッサイの根から立ち上がられるお方がいる!!

クリスマスってなんだっけかなあ、とクリスマスの意味を思い出させてくれる。

豪華なクリスマスのディナーは我が家には無縁だ。

クリスマス・プレゼントを期待するのも無理だろう。

毎日、毎日、入って来る折り込み広告のチラシの豪華なオードブル予約注文に

繰り返される華やかなクリスマス用品の広告に

いつしか踊らされている愚かな自分の姿に気づく。



嗚呼!! エッサイの根から立ち上がられるお方

クリスマスのオードブルなんて関係ない。

華やいだプレゼントの数々も、エッサイの根から立ち上がられるお方の前では

無きに等しい・・・それがクリスマスだったのだと

クリスチャンなのに今また再確認させられた。



慌しい日々の中で過ごす暮らしの中で、ヴィジョンに手が届かないからと

眠れない夜を過ごして朝になったというのに

そうだ、エッサイの根から立ち上がられるお方こそが本当の意味での我が希望であり

それゆえのヴィジョンだったというのに

何をそんなに悲嘆して眠れぬうちに朝を迎えてしまったのだろうか。




信仰によるすべての喜びと平和』が満たされる。

『聖霊の力によって望み』があふれる。

(13節)

この世では得ることの出来ない「希望」を、私に注いでくださる。

そうだ、思えば今までだってずっと注がれていた。忘れていた。

望みの神』がこんなにも恵みを注いでくださっていたことを・・・



望みの神、あなたがご臨在してくださっていたから

幾度、挫折してもこうしてここまで生きて来れた。

この世に希望を託すのではなくこの世に未来を夢みるのではなく

望みの神に希望を置く


嗚呼!! エッサイの根から立ち上がられたお方にハレルヤ!!




祈り

「父なる天の神様。クリスマスのこの季節をありがとうございます。

イエス様をこの地上にお遣わしになってくださったことにより

永遠に至る希望を与えてくださったことを信じます。感謝します。

我が望みの神。ここまでの道のりを守り支えてくださったことも感謝します。

ああ、我が望みの神。あなたが地上に降りて来てくださったから

地上での希望だけではなくて神の国の望みがもたらされたことを信じます。

信仰によるすべての喜びと平和をもって私を満たしてください。

聖霊の力によって望みにあふれさせてください。

みことばをありがとうございました。生きることの真の望みを感謝します。

尊い主イエス様の御名によって祈ります。  アーメン」
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「ただ一方的な神からの恵みとしての救い」

デボーションガイド「マナ」 聖書箇所  ローマ人への手紙9:6-13


ただ一方的な神からの恵みとしての救い



私が生まれたのはクリスチャンホームではなかったが

保育園の先生の紹介で日曜学校(教会学校)に通っていた。

毎週、毎週、欠席することはなく小学生に上がってからは更に熱心に教会へと通い

一般向けの礼拝にも出席をするようになっていた。

小学四年生のときには聖書を全巻読み通していた。

中学生の頃になると友人たちをも教会へ誘ったり奉仕も熱心にするようになった。

自宅から教会までは自転車で30分。

徒歩だとすると一時間以上はかかった。 冬の吹雪の日などは道なき道を歩き3時間かけて通った。


そんな中学時代に洗礼を受けたのだが、高校生になってからは

教会学校の先生としての奉仕も引き受け、礼拝では受け付けをもするようになっていた。

誰しもが私を「熱心な教会員だ」と言っていた。



クリスチャンになって後も、たぶん人一倍のがんばり屋さんだったかもしれない。

救いを説いても受け容れない人に出逢ったり、なかなか心を開かない人や

世間話で悪口を言い合う人や、お酒を飲んで酩酊するような人に対しては

「ああ、あの人がクリスチャンになるなんてことはないだろうし

ああいう人がクリスチャンになるのならば、私はイヤだなあ」などと

不謹慎にもそんなことまで考えてしまうのだった。



クリスチャンの兄姉の欠点も見逃さない。

「どうして救われたというのに、ああなんだろうか」と心の中で呟く始末だった。



しかし!!! 聖書は語る。

熱心さのゆえに救われたわけではないことも、欠けがあったとしても

それは、救いには関係なく一方的な神からの恵みのみ

神からもたらされると聖書は語る。


穴があったら入りたい。本当に私は恥ずかしい思い違いをしていたのだった。

ただ一方的な神からの恵みとして救いがある。生かされる。

宗教改革者マルチン・ルターは言った。

恵みのみ、信仰のみ、聖書のみ」



何も幼いころから教会に熱心だったり、聖書を読破していたから救われ生かされたのではない。

クリスチャンになった後も、がんばったから今があるわけではない。

むしろ、私が不信仰に陥ったときにも神様は守り支え待っていてくださった。

病気に冒され奉仕も何も出来なくなり、兄姉から助けられて教会生活をするようになった今も

神様からの祝福は豊かに豊かに注がれ続け、礼拝へと招かれている。

かつての私はなんと思い上がっていたことだろうか。



ただ一方的な神の恵みのみ

それゆえに今日も私は生かされている。


聖書をメモ書きして閉じたい。

『・・・イサクひとりによってみごもったリベカのこともあります。

その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、

神の選びの計画の確かさが、行いにはよらず、召してくださった方によるようにと、

「兄は弟に仕える」と彼女に告げられたのです。

「わたしは、ヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。』

(9:10-13)
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「クリスマス預言と神の平和の実現と私の救い」

デボーション・ガイド「マナ」 聖書箇所  イザヤ書3章〜12章



「クリスマス預言と神の平和の実現と私の救い」



神に従わないイスラエルの王と民たち。

やがて滅んでゆく道を辿ることになるのだが

ここでは、神様がどれだけ聖なるお方であるかを知らされると共に

絶望の中にも救いの道をも備えてくださっていることが記されている。



4:2 このみことばは一連の預言書の中での最初のメシヤ預言となる。

『その日、主の若枝は、麗しく、栄光に輝き、地の実は、イスラエルの

のがれた者たちの威光と飾りとなる。』


4:3〜4:6では特に

新約の「黙示録」の先駆けともなり、昔のイスラエルの歴史を思い出させるみことばが続く。

預言書で初めての『聖霊預言』も含まれている。


『シオンに残された者、エルサレムに残った者は、聖と呼ばれるようになる。

みなエルサレムでいのちの書にしるされた者である。

主が、さばきの霊と焼き尽くす霊とによって、シオンの娘たちの汚れを洗い、

エルサレムの血をその中からすすぎ清めるとき、

主は、シオンの山のすべての場所とその会合の上に、

昼は雲、夜は煙と燃える火の輝きを創造される。

それはすべての栄光の上におおいとなり、仮庵となり、

昼は暑さを避ける陰となり、あらしと雨を防ぐ避け所と隠れ家になるからだ』

(以上は、4:3〜4:6)




イザヤ書6章では、イザヤへの召命が記されている。

そこのところは、あえて特記しない。

ただ、神様が聖なる聖なるお方であることをここにあらためて記録として残すことにする。


イザヤ6:1〜6:3

『ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。

そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。

彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、

二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言った。

聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。』



・・・セラフィムたちでさえも主を直接に仰ぎ見ることができないように

その翼で自分の顔を覆うほどに、主は聖であられる。



今の季節はちょうどクリスマスのシーズンになろうとしているが

10:14にてクリスマス預言がされている。

そうして、このクリスマス預言は「クリスマス」というだけにとどまらず

やがての新天新地の預言と繋がり11:8では女の子孫と蛇との間の敵意の関係が取り去られて

神の完全な平和が実現されることが預言されている。

『乳飲み子はコブラの穴の中で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。』

(イザヤ11:9)




主のご降誕によって、罪にまみれたこの身が贖われたことを、再び感謝すると同時に

絶望の真っ只中に於いても、希望がある。

その希望は、神様ご自身のうちにあることを深く深く感謝したい。

『あなたがたは喜びながら、救いの泉から水を汲む。』(12:3)


新約のヨハネの福音書7:37ではイエス様ご自身が、招きの言葉を発せられる。

『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。』

・・・この主イエス様の招きの言葉は、仮庵の祭りの際にイザヤ書12章が朗読された時に

仰せられたみことばでもある。


絶望の真っ只中に於いて、私の心が干上がりそうなときにも、主は泉を用意しておられる。

その泉は、主ご自身にほかならないということは

なんという慰めであろうか。


イザヤ書12:2の聖句の如くに、主に対して応答していきたい。

『見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。

ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。』





祈り

「愛する天の父なる神様。御名を賛美いたします。

私の罪を贖うためにイエス様を地上に遣わしてくだったことを感謝いたします。

それだけにとどまらず、神様の完全な平和が実現される約束をも感謝いたします。

渇いているなら来なさい、と招いてくださる主にこそ

私の希望があり、たとえ絶望のときにさえも変わらぬ招きがあることを

心からありがとうございます。

神は私の救い、と主に応答しながら歩ませてください。

また、主は聖なる、聖なる、聖なる方でありますから

その聖さにもあずからせてくださり、この身の穢れをも取り除いてください。

聖なる主の証し人として、希望に満たされて日々を歩ませてください。

尊いイエス様の御名によって祈ります。  アーメン」







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「愛する者よ。あなたのすべては美しく、あなたには何の汚れもない」

デボーション・ガイド「マナ」 聖書箇所 雅歌


「Song of Songs 歌の中の歌」と呼ばれるのがこの「雅歌」である。

男女の性描写が描かれてもいるこの書物が

聖書の中のひとつとして位置づけられていることに、ホッとさせられる。

夫と妻が愛し合い、慕い合い、ときとして葛藤したり誤解したりしながらも

その愛を貫きとおす姿は「性」が汚らわしい陰湿なものではなく

神様から祝福された恵みの証であることに気づかせられ

自らの結婚生活を振り返る機会ともなる。



また、周知の如くに

この「愛」はキリストと教会の姿になぞられられ

神と人との麗しい関係への招きの書物である。



雅歌をとおして読んでみて、静かに神様の御前に首を垂れる。

『わが愛する者よ。あなたのすべては美しく、あなたには何の汚れもない。』(4:7)

主なる神様からのこの宣言に、涙があふれる。 


私が美しいわけがない。汚れが無いはずなどない。

人生40年歩いて来て、醜いことばかりを繰り返して来た。

批判非難に自己防衛、妬みやひがみ、嘘に意地悪い態度・・・

本来ならば「みにくい。汚れのかたまりの者よ」と神様から宣告されて然るべきなのだ。

ところが

天の父なる神様は、私を花嫁としてくださるがために

イエス・キリストを地上に遣わし十字架に掛けてまでも、私を清めてくださったのだ。

そして

『わが愛する者よ』と声をかけてくださり『あなたのすべては美しく、あなたには何の汚れもない』とまで

宣言して、神様ご自身が私に愛を告白してくださった!!!



『すべてが美しく』と私のこの身も、私の人生をも引き受けてくださった。

しかもそれは、ボンヤリとした言葉ではなく具体的に私のひとつひとつを挙げて

褒め言葉を掛けてくださっているのだから、涙があふれる。



神様から愛され言葉をかけられた女性は言う。

『王は私を奥の間に連れて行かれました。

私たちはあなたによって楽しみ、喜び・・・』(1:4)


王なる神様は、このような私のためにも喜び楽しむことを得させてくださる。

十字架の贖いのゆえに、王なる神様と隔ての壁は失くなり

神様が備えてくださった最高の場所にて楽しみ喜び

『ああ、わが愛する者。あなたはなんと美しいことよ。なんと美しいことよ。』とまで賛辞をいただき

日々を愛と麗しさの中に招き入れて暮らさせていただけることを

この地上に於ける最大の慰めと光栄と感じ、神様に感謝をささげる気持ちでいっぱいだ。




私もまた、王なる神様に大胆に信仰の告白をさせていただく。

『私は、私の愛する方のもの。あの方を私は恋い慕う。』(7:10)


そうして、私自身をささげ

私も出来る限りの精一杯をこの雅歌に登場する乙女のようにさせていただく。

『・・・私の愛をあなたにささげましょう。

恋なすびは、かおりを放ち、

私たちの門のそばには、新しいのも、古いのも、

すべて、最上の物があります。

私の愛する方よ。これはあなたのためにたくわえたものです。』(7:12-13)




祈り

「父なる神様。感謝いたします。

罪と穢れだらけの私に向かって神様は、私のすべては美しく、何の汚れもないと

宣言して愛をくださったことを、ありがとうございます。

今、そのあなた様に応答して麗しい中で歩ませてください。

私にとっての出来る限りの最上のものを、おささげして

私もあなたに対して、愛を具体的に示すことができますようにお願い致します。

神様の愛の中で、この人生をまっとうさせてください。

十字架に掛かって葬られ死者の中より復活された栄光の主イエス様の御名によって祈ります。

アーメン」



「神様からの光と、ご加護のもとで」

デボーション・ガイド「マナ」 聖書箇所  使徒の働き27:14-26 28:1-10


神様からの光と、ご加護のもとで生きる」



ローマに向かうパウロ。

その当時にしては決して小さな船ではなかったと思われる航海。

パウロを含めた276人が乗っていたと思われる航海であり

このときのパウロは「お客様」として乗っていたわけではない。

「囚人」として、ローマの皇帝のもとでの裁判に掛けられるための旅だった。


『ところが、まもなくユーラクロンという暴風が陸から吹きおろして来て、

船はそれに巻き込まれ・・・』(27:14節,15節)


船は暴風雨に翻弄されることとなる。

『私たちは暴風に激しく翻弄されていたので、

翌日、人々は積荷を捨て始め、三日目には、自分の手で船具までも投げ捨てた。

太陽も見えない日が続き、激しい暴風が吹きまくるので、

私たちが助かる最後の望みも今や絶たれようとしていた。

だれも長いこと食事をとらなかった・・・』(27:18-21)



この状態は2週間近く続いたと思われる。

太陽も見えない、いつが夜で昼間はいつなのかさえもわからない闇の海の狭間を彷徨う乗客。

『助かる最後の望みも今や絶たれようとしていた』

250人余りの乗客は、最後の望みも、もはや無い状態になっていた。

とうてい食事を取る気持ちになどなりはしないだろう。

聖書には記されてはいないが、このような状況の中で

自暴自棄になったり、自分の人生の結末を嘆いたりした人々がほとんどだったであろう。


もしも、私が乗客であったならば

自暴自棄を通り越して、神様を恨んでいたかもしれない。

自分の身の上の哀れさを呪いっていたかもしれない。



ところが、この話はここでは終わらない。

神様は、パウロをとおして、皆を元気づけるようにと命じる。

『恐れてはいけません。パウロ』と天使は呼びかける。(27;24)





そして・・・

使徒の働き28章に話は続く。

神様の御告げのとおりに、全員が無事で島に打ち上げられる。

寒さのために火を炊いていた船から助かった人々とパウロは

炊いた火の熱気のためにマムシが這い上がって来てパウロに食らいつく。




島の原住民たちは、この様子を見て思うのだ。

『海からはのがれたが、正義の女神はこの人を生かしてはおられないのだ。』(28:4)

暴風雨を2週間近く彷徨って命の危険に見舞われたのは助かったものの

マムシが食らいつくとは、人殺しの悪者ではないのかとパウロを疑ったのだった。

しかし、マムシが食らいついて時間が経っても、パウロは倒れもしなければ

噛まれた手も腫れ上がりもしない。またしても命は失われない。

島の原住民は、驚きと共に手厚いもてなしをすることとなる。

そればかりではなく、病気の人がやって来ては癒してもらう。





乗客船でも「囚人」として乗っていたパウロ。

その「囚人」のパウロによって、荒れ狂う海の狭間にあっても励ましを得た人々たち。

そうして、打ち上げられた場所に於いてはマムシに噛まれて命を落とす危険にさらされたパウロ。

ところが、島の人々さえも驚くほどにパウロは守られ

島の原住民の病気をも癒すという主に在るわざを行なっている。


ローマ皇帝下で裁判に掛けられるはずの「囚人」パウロが

神様のご加護のもとに生きて証し人となる。





私も「キリストの囚人」として神のご加護のもとに生きる証し人となってゆきたい。

荒れ狂う海を彷徨っての旅は「人生」に似ている。

太陽が見えないときさえあり、望みを捨てる覚悟をしなければならないときさえあるのが「人生」

一寸先は闇なのである。

ひとつ、不運を逃れて安堵しても、試練は襲い掛かるのも「人生」だ。

この箇所でいうならば、パウロがマムシに食らいつかれて噛まれたように。




「一寸先は闇」の人生を照らすのは、神様のみことばと憐れみと恵みである。

聖書の別の箇所には

『あなたのみことばは、私の足の灯、私の道の光です。』と詩篇の作者は信仰告白して

みことばを光として歩み、(詩篇119:105)

主イエス様ご自身も言われました。

『わたしは世の光です。わたしに従う者は決してやみの中を歩くことがなく、いのちの光を持つのです。』

(ヨハネの福音書8:12)

・・・荒れ狂う人生の波の中で太陽が見えないときにも、主が光となってくださる。



そしてまた、最後の望みが今や絶たれようとしているときにも

神様のご加護はあるのだ。

『彼は望みえないときに望みを抱いて信じました・・・』(ローマ人への手紙4:18)



神様からの光ご加護のもとに生きることを得させていただきたい。



祈り

「天の父なる神様。

私は人生という船に乗っております。

時として激しい嵐に波は荒れ狂い、光が見えない時さえあります。

けれども、パウロに対して、恐れることはないと語られた主は

今、私の主であり同じく、恐れることはないと共に居てくださることを感謝します。

望みが絶たれようとしているように思える時にも

あなたのみここばの光によって導かれ

光を見出すことができますにお願い致します。

イエス様ご自身が自らを光であると言われました。

従う者は決して闇を歩くことはないと語られました。

人生の嵐の中で、光を失うような時にも、主ご自身の光の道に生かしてください。

闇の中に於いても、逆境の中に於いても、神様のご加護のもとで生かしてください。

主に在る望みをいだいて日々を歩ませてください。

イエス様の御名によって祈ります。  アーメン」

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「福音の証し人として、生き方に確信を持つ言葉と歩み」

デボーション・ガイド「マナ」 聖書箇所  使徒の働き26:24-32


福音証し人として、生き方に確信を持つ言葉と歩み」



前章の25章に引き続いての場面が更に展開される。

カイザリヤに来ていたアグリッパ王とベルニケがローマの総督フェストのもとを

表敬訪問していたときに起きたパウロの一件だ。

25章では、ユダヤ人たちはパウロを訴えたが、総督であるフェストは

犯罪というよりも、問題点は、イエスが生きていると主張していることであることと

フェスト自身はどうしたら良いものなのかわからないとアグリッパ王に話す。

『ただ・・・イエスが生きているとパウロは主張するのでした。

このような問題をどう取り調べたらよいか、私には見当がつかない・・・』

(前章の25:19-17)


少し余談になるが、確かに、別の章においてもアテネでもパウロは

死者の復活のことを語り、周りの人々から馬鹿にされている。

『死者の復活のことを聞くと、ある者たちはあざ笑い・・・』(17章32節)



イエスはキリストであり、十字架の死を持って人類の罪を贖い、復活によって

永遠のいのちを信じる者には与えたもうことを証するパウロであったのだった。

そのパウロが、フェストの勧めによりアグリッパ王と対面するのが今日の箇所である。


ローマの総督フェストと、ユダヤの王アグリッパの面前で

福音を語る機会をパウロは逃しはしなかった。

イエスが復活している、と語るパウロをに対して

総督フェストは気が狂っていると決めて掛かる。

アテネにて、復活を語り笑いの種になったのと同じ反応を総督フェストは示す。

『気が狂っているぞ。パウロ。博学があなたの気を狂わせている。』(24節)

『・・・フェスト閣下。気は狂っておりません。私は、まじめな心理のことばを話しています。』(25節)


このようにして総督フェストとパウロの間でのやり取りがなされている。

パウロは、アグリッパ王にも話す。

『アグリッパ王。あなたは預言者を信じておられますか。もちろん信じておられると思います。』


アグリッパの立場としては、「預言者を信じていない」と答えれば

預言者たちが以前から、キリスト=メシヤの到来については語られていることであり

そのメシヤによって救いが成就することも知っていて当然のことであるからにして

パウロとしては、そのような賢いともいえる話掛けをする。

しかし、アグリッパ王は警戒しているような返事しかしなかった。

『するとアグリッパはパウロに、「あなたは、わずかのことばで、私をキリスト者にしようとしている」と

言った。』(28節)



・・・さて、この箇所からはこのみことばを心に留めたい。

このみことばは、私たちにパウロの証の方法と証の生き方を示唆してくれる。

『パウロはこう答えた。「ことばが少なかろうと、多かろうと、

私が願うことは、あなたばかりではなく、きょう、私の話を聞いてくれている人がみな、

この鎖は別として、私のようになってくださることです。』(29節)


鎖に繋がれて牢屋に投獄されても、なお、自分の生きる道に確信を持ち

復活の主を宣べ伝えて、自分のように福音を信じるキリスト者になって欲しいのだと

パウロは、語っているのだ。


私は、自分の生き方を、キリスト者として堂々と皆に

「私のようになってください」と言えるだろうか?

そのような歩みをキリスト者としてふさわしく生きているだろうか?

十字架の贖いと復活の永遠の命をいただいた者として証し人として、ふさわしく歩み

パウロのように、キリスト者としての生き方の確信を持って日々を過ごしているのか

点検させられ、吟味させられる。



祈り

「天の神様。福音を信じ、福音に生きる者として

語るべきことや日々の歩みを主の御前に恥ずかしくないような

福音にふさわしい生き方の確信を持って、証し人として生きていけますように

弱い私を助け、導いてください。

イエス様のお名前によって祈ります。 アーメン」
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「人生をどのように生きるのか?・・・召しを考える」

デボーション・ガイド「マナ」 聖書箇所  使徒の働き22:12-21


人生をどのように生きるのか?・・・召しを考える」


パウロが過去にはキリスト教を迫害していたことは

使徒の働きの前半に書いてある。

また、ダマスコの教会を弾圧する途上にあって、キリストと出逢い回心を遂げて

キリスト教(福音)の道へと入り、福音宣教に召されたことも

この書の前半部分で読むことが出来る。



そのパウロであるがエルサレムで宮で祈っていると、夢心地になって

主にお会いしました。

パウロの証がエルサレムでは受け入れられないから、早く去るようにとのことでした。

かつては律法に熱心で、その熱心さのあまりに

キリスト教会やキリスト者を弾圧していたパウロです。

あのステパノが弾圧されて殺害されるときにも、パウロは証人となって着物の番までしていました。

自らの過去とはいえ、受け入れてもらえないのは承知だったでしょう(19節)



夢心地で祈っていたときにお会いした主は、もうひとつのことを命じます。

『行きなさい。わたしは、あなたを遠く異邦人に遣わす』(21節)



この聖書箇所を読むときに

パウロが過去はキリスト教とキリスト者を迫害し弾圧していたのが回心して

キリストの道に入って福音を伝える働きに携わるようになったことを

今一度、思い起こすと共に

もっとも、重要なこととして

異邦人伝道への召命がハッキリと主ご自身からを受けたことがカギである。



私たちは、私は、残された人生をどのように生きるかを問われる。

一度は献身をして牧会・伝道の道へと召されたが

病いのために、教会を辞任した。

残された人生をどのように生きるかを問われる。

再び、教会で働くことはないかもしれないにしても

クリスチャンであるならば、誰でも、なんらかの召しは受けているはずだ。

ならば、その召命が何であるのかを見極めて生きなければならない。



祈り

「神様、クリスチャンであれば誰であれ、なんらかの召命を受けているはずです。

自らの信仰の原点に立って、残りの人生をどのように生きるべきなのかを

主に在って確認させてください。

証し人として、どのような形で生きていくかを教えてください。

主イエス様のお名前によって祈ります。 アーメン」
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「真理の道に生きる」

デボーション・ガイド「マナ」 聖書箇所  使徒の働き21:17-26



真理の道に生きる」


さて、1ヵ月の後半は新約聖書から『使徒の働き』の続きです。

この箇所では、異邦人伝道をしているパウロが誤解される場面です。



旧約の時代からユダヤ人たちは、モーセの律法を重んじてきました。

割礼を施すことなどは、当然のこととして考えられ行われていました。


しかし、主イエス様のご降誕と十字架復活によって

新しい時代の幕開けとなりました。

律法を否定するのを良しとしたわけではありませんが

主イエス様のご降誕と十字架復活の力によって

これまでの律法よりも「真理」がイエス・キリストにおいて明らかにされたのです。

パウロは、そのことを伝える働きに携わりました。

しかも、ユダヤ人以外の異邦人にも「真理」=「福音」を語ったのでした。


キリスト者となったユダヤ人は、モーセの律法がパウロによって軽んじられて

異邦人伝道の働きを誤解しています。


そのことに対してのパウロのとった行動に着眼したいものです。

エルサレム教会の長老たちは、パウロに提言をします。

ユダヤ人クリスチャンも、異邦人クリスチャンも共にひとつの神の民であることを

理念としていたパウロは、その提言に従います。


『ですから、私たちの言うとおりにしてください。

私たちの中に誓願を立てている者が四人います。この人たちを連れてあなたも彼らと一緒に身を清め、

彼らが頭をそる費用を出してやりなさい。

そうすれば、あなたについて聞かされていることは根も葉もないことで、

あなたも律法を守って正しく歩んでいることが、みなにわかるでしょう』(23,24節)


『そこで、パウロはその人たちを引き連れ、翌日、ともに身を清めて宮に入り・・・』(26節)



この箇所でわかるのは、パウロが自分が誤解されているから自分の正しさを証明したくて

なんとかしようとしたのではなくて

真理」=「福音」のために、長老たちの勧めに従い

自分の財産を削ってまでも、一緒に証をしてくれる四人のための費用を出している。

パウロは、自分自身のことよりも「福音」を最優先して生きている姿が見える。



ユダヤ人クリスチャンが割礼を施したり、モーセの律法を守り続けることを認めながらも

一方では、「モーセの律法」よりも勝る道があることを伝えるパウロであった。

モーセの律法よりも勝る道とは「主の十字架による贖い福音

まさに、これこそが「救いの道」「真実の道」にほかならない。




祈り

「天の父なる神様。旧約の時代にあなた様はモーセの律法をとおして

人が生きる道を示されました。

しかし、御子であられるイエス様を地上にお遣わしになることで

その十字架による罪の赦し贖いによって、永遠の命に至る道を示してくださいました。

いまや、このことを信じることこそが唯一、救いの道であることを感謝致します。

律法によってではなく、活けるキリストご自身が

救いの道を成就してくださいました。

このことを証し続けていくためには、まず、私自身が

福音を正しく理解して、真実の道をひた走る者となれますように助けてください。

贖い主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン」
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「失望せずに、神様の時を期待する生き方を !!」

デボーション・ガイド「マナ」 聖書箇所  伝道者の書11:1-10



「失望せずに、神様の時を期待する生き方を !!」



私たちは、神様が行なってくださることのすべてを知り得ない。

神様のみわざが、どのように成就するのかという

先の見通しを知り尽くすことは出来ない。

人間的には、あれやこれやと予定を立てたり、計画したり、必要と思われる情報収集もする。

それによって大体のところを予測することは出来たとしても

それが100パーセント確実な結果になるとは、誰も断言できない。

予定は、あくまでも予定であり

情報収集して綿密に計画したことでさえも「人間」である限りは

その予測の見通しは、必ずや間違いは絶対に無いとはいえない。

『・・・あなたはいっさい行なわれる神のみわざを知らない』(5節)

神様のなさることは、人の立てる予測を超える。

情報収集するのも簡単な時代になった現代社会にあっても

『神のみわざを知らない』(5節) といわなければならないだろう。



けれども

「棚から、ボタ餅」のように口をあんぐり開いて

時の過ぎ行くのを待つということを、聖書では決して推奨してはいない。

もちろん、神様のみわざ

私たちの努力が加わって、その結果が良いものになるというのではない。

一部のキリスト者は、それを主張はするが間違いである。

どのような人間の努力も、神様のみわざとコンビを組んでの良き結果を生み出すことは無い。

ルターが強く強く語っているとおり、人は、ただ「恵み」によってのみ生かされる。

人間の努力は、神様の「恵み」によってのみ祝福される。



では、その「恵みによる祝福」の秘訣。

そのことが、この箇所に示されている。

『あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見出そう。』(1節)

『朝のうちにあなたの種を蒔け。夕方も手を放してはいけない。』(6節)


神様が私たちにくださる祝福を逃すことのないように

朝のうちに蒔いて、夕方も失望しないでいなさい、と聖書は言う。

無駄になることを恐れて何もしないのではなくてパンを水の上に投げなさい、と

聖書は勧めをしている。


『あなたのパンを水の上に投げよ』は

「この働きは無駄になるかもしれないけれども、労苦を惜しんではならない。

人はいつどのように報いを受けるかわからないが、主が必ず報いてくださる」と捉えて考える聖句だ。

(デボーション・ガイド「マナ」10/16解説参照)



6節には続きがあるので通して聖句をもう一度、記すことにする。

『朝のうちにあなたの種を蒔け。夕方も手を放してはならない。

あなたは、あれか、これか、どこで成功するのか、知らないからだ。

二つとも同じようにうまくいくかもわからない。』



最初に記したように、神様のみわざがどのようなものであるかを

私たちは知ることが出来ない。

綿密な計画さえも、確実に100パーセントだと人間である限り断言は出来ない。

しかし、神様は「恵みによって祝福」をくださる神様であることは確かなことだ。

それゆえ、私たちは、持っているパンを水の上に投げ、種を蒔いておこう。

失望しないでいたい。

主に在って期待して、今日も主に委ねることをさせていただこう。



祈り

「神様。自分の思ったような結果でないとガッカリして途方に暮れるような私です。

けれども、神様にお委ねして期待して、一日・一日を精一杯に生きさせてください。

心に思う願いや希望は沢山ありますが

自分の力で為しえようとはせずに、神様からの時を失望せずに待ち

主からの恵み祝福を、楽しみとして生きる生き方をさせてください。

尊い主イエス様の御名によってお祈り致します。 アーメン」


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「たましいを、神に磨いていただく」

デボーション・ガイド「マナ」 聖書箇所  伝道者の書10:1-11


「たましいを、神に磨いていただく」


この聖書箇所では1節にあるように

『少しの愚かさは、知恵や栄誉よりも重い』と、人生において愚かなことをしてしまうのは

避けて通れないものだとされている。

ほんの少しの愚かさが、栄誉を傷つけてしまうのでもある。

(デボーション・ガイド「マナ」10/15解説欄参照)


そして、愚かな者がどのような道を歩いてしまうのかが列記されている。

内側の愚かさは、必ず外側にも表れてくるものであることが3節に示される。

愚か者が道を行くとき、思慮に欠けている。

自分が愚かであることを、みなに知らせる。』


また、このような例えを持って「愚か者」の有り様を描いている。

『穴を掘るものはそれに落ち込み、石垣をくずす者は蛇にかまれる。』(8節)




愚かなままに歩くときに、周りの皆にそれが周知の事実として知られるとは

本当に私たちは「愚かさ」に注意しなければならない。

愚か者」にならないようにと心させられる。

自分で穴を掘って、その穴に落ち込むような生き方をしないようにしたい。



この箇所では支配者であろうとも気をつけなければならないことを示唆する。

同時に、支配者のもとにある私たち。

私たちは学校や職場や教会だけではなく、国や市などの政治のもとに存在する者である

その支配のもとにある私たちが「」という「愚かさ」を回避するようにとの

勧めも4節でなされている。

『支配者があなたに向かって立腹しても、あなたはその場を離れてはならない。

冷静は大きなを犯さないようにするから。』




支配のもとで不法にあつかれても、支配者が怒っても

その場で感情的になったりすることなく、冷静になることは

」= 「愚かさ」から回避する方法だと示している。


支配する側や、立場の優位な人でさえ立腹する現実を認めることは必要である。

彼らのために祈り、彼らを愛することをしていきたいと願わされる。

支配のもとに於いても従順でありたいとも願う。



さて、この箇所のテーマとなっている「愚かさ」について話を戻す。

私たち人間は、残念ながらも「愚かさ」を人生において避けては通れない。

どんなに注意して用心しても「」ある人間は「愚かな生きもの」である。

常に、知性と霊性を研ぎ澄ましていかなければ

「愚かな生きもの」として歩き続けてしまう。

10節を見ると、神様から磨かれる必要があることがわかる。

『もし斧が鈍くなったとき、その刃をとがないと、もっと力がいる』



あとあとになってから「」= 「愚かさ」の対処をしないで

日ごとに神様からたましいを磨いていただき、知性と霊性を研ぎ澄まされて

この現実社会においても恥じることなく歩ませていただきたい。




祈り

「天の神様。私は愚かなままで日常を、やり過ごしてはいないでしょうか?

斧が鈍くなると刃を研ぐのには大変なことになります。

ですから、日ごとの生活の中で常に神様から磨いていただき

社会の中にあっても、主の証し人として恥じることのない歩みをさせてください。

足りないところの多い私です。欠けだらけの私です。

にまみれて暮らしてしまう弱い私です。

そのような私を、神様が磨いて整えてくださいますようにお願い致します。

主イエス様の名によって祈ります。 アーメン」


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「人生と向き合い、神に導いていただく」

デボーション・ガイド「マナ」 聖書箇所  伝道者の書7:1-14


人生と向き合い、神に導いていただく」


慌しく過ぎ去っていく日々の中で

どれだけ「自分の人生」にしっかりと向き合っているだろうか。

また、私などは楽しい日にも神様に感謝するのもそこそこで

かといって悲しみの日に神様の導きを仰ぐこともせずにクヨクヨと泣きわめく愚かな者で

神様に対して、申し訳ないような信仰を持った者であった。



『祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。

そこには、すべての人の終わりがあり、

生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。』(2節)



なんと考えさせられる言葉であろうか。

だいたいにして、人というのは、喪中の家を訪問したり葬式に参列するよりは

パーティーやら会食やら結婚披露宴やらの楽しいレセプションに参加したがる。

おいおいと涙するよりは、笑いに興じたほうが楽だからだ。

ところが

このところでは「祝宴に行くよりも、喪中の家に行け」という。

本当に考えさせられることではないだろうか。



葬儀に参列するたびに、故人の歩みをも思わされるが

同時に「自分の死の間際」をも思う私だ。

私が死んで葬儀をした際には

「美穂さんは死んだら天国で永遠に生きると言ってたから

クリスチャンの人生の最後は、永遠に生きる道に続くことを、もっと知りたいね」と

葬儀の参列者に天国や永遠の命に関心をいだいて欲しいと切に願わされる。


いずれにしても私たちは、どのような葬式に参列したときにも

否応なく「人生」を考えさせられるのではないだろうか。

楽しい祝宴に参加することは決して悪いことではないが

『喪中の家に行く』それは、聖書で示しているとおりに

『生きている者がそれを心に留めるようになるからだ』ということを

身にしみて思わされる。




さて

14節にはこうある。

『順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。

これもあれも神のなさること。・・・・』



冒頭で記したが、私のような愚かな者は

順境の日にも、神様への感謝を充分にしないままに終わり

かといって逆境の日には、ただ落ち込むか泣きわめくかだった。

しかし

私は、このたびの大震災で聖書のこの言葉を実行するようになった。

このところの言葉にあるとおり『これもあれも神のなさること』だからである。(14節)

震災で息子は仙台在住なので、被災した。

私たち夫婦は被災地には住んではいないが震災影響で収入が途絶える経験をした。

自力ではどうにもならないことがあることを知った。

『これもあれも神のなさること』

私は生きて来たこれまでを振り返り、人生と向き合った。

クリスチャンにも悔い改めは日々、必要である。

それまで「このことは悔い改めた」と言いつつも

実は単に自己卑下であったりしていたのではないか、と深く深く考えさせられた。


真の「悔い改め」をして、神様からの助けを得て暮らすことの大切さに

目が開かれた。

『これもあれも神のなさること』であるのだから

喜びのときには、自分の感情だけに流されずに

「神様の御前にて、喜ぶ」そのこともさせていただくように変えられた。





悲しみや苦悩、人の死に直面するときに

人にとって最も大事なものは何か、いつまでも残るものは何か

自分の在り方を深く顧みるときとなる。

人生と向き合い、神様と向き合うことともなることを心に留めたい。

(デボーション・ガイド「マナ」10/14解説も参照したい)



慌しく過ぎ去ってゆく日々の中で

デボーションの時間をしっかりと確保することは

人生と向き合い、神様の導きを仰ぐために不可欠なことでもある。




祈り

「天の父なる神様。尊い御名を賛美いたします。

特別な出来事のないときでも、日々の暮らしの中で

自分の人生と向き合い、神様からの導きを仰ぐ生き方を貫くことができますように。

神様の御前にて、悔い改め

神様の御前にて、喜び歌い感謝をささげる毎日とさせてください。

そのために、日々のデボーションの時間をも死守することが出来ますように

そのことさえも導いてください。  イエス様のお名前によって祈ります。 アーメン」



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「もし地上の生涯がすべてだとしたら」

デボーション・ガイド「マナ」 聖書箇所  伝道者の書1:1-11


「もし地上の生涯がすべてだとしたら」



今日のタイトルは、デボーションガイドのものを

そのままに使わせていただいた。


伝道者の書は、一見すると虚しい言葉が羅列されているように思えても

じつのところは、まったく違うと言えよう。

虚しさの中で見出される「希望の書」といえるのではないか。



このたびの大震災で

私は、人間の努力の虚しさを嫌というほど味わった。

被災地ではないけれども

震災の影響で、一家の大黒柱の主人の収入が途絶えて

そのために

じつに多くのところを通され、考えさせられた。



『空の空。すべては空。

日の下で、どんなに労苦しても、それが何の益になろう。』(2,3節)



このことを嫌というほど味わった。

どれほど労苦しても、それらは不確かなものにしか過ぎない。

逆のことも考えられる。

たとえば

自分の楽しみやレジャーで愉快に日々を過ごしても

好むことに没頭して時間を費やしても

それらは不確かなものにしか過ぎない。



汗水流して苦労するにしても、好むことをして楽しみを得ても

神様に依らなければ、地上の生涯は虚しいものだ。

この聖書のみことばを読んで「地上の生涯は虚しい」と結論づけてはならない。

ポイントは

「神様に寄り頼みながら、汗水流し労苦して

また、神様からの祝福と恵みに寄り頼み、レジャーや趣味を楽しむならば

地上の生涯は、麗しいものとなる」ということである。



・・・今回、私たち夫婦が直面した震災の影響での苦しみ。

世間の常識で考えるならば

「仕事と収入を失って惨めだね」という虚しさになるが

神様の御前で祈り、憐れみと恵みを求めたときに道は開かれた。

少しずつ、少しずつではあるが暮らしも落ち着き始めた。


もし地上の生涯がすべてだとしたら

どんな苦労も楽しみも虚しい。

しかし

神様との交わりの中での地上の生涯は、祝福されると信じたい。
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「信じるだけで救われる」

デボーション・ガイド「マナ」 聖書箇所  使徒の働き15:1-2,15:22-32 17:1-9


「信じるだけで救われる」


まずは17:1-9であるが

ここでは、パウロとシラスが妬みに駆られたユダヤ人たちに

ののしられている場面が記されている。


『パウロはいつもしているように、会堂に行って、

三つの安息日にわたり、聖書に基づいて彼らと論じた』(2節)


パウロは、この日に特別なことをしたわけではなく

いつもしているように会堂に出掛けている。

しかし、妬みを持った人々から

『世界中を騒がせて来た者たちが・・・』(6節)

そう糾弾されて役人たちのところへ連れて行かれる。



この姿から、私たちも『いつもしているように』

福音宣教を日常のこととしてしていくべきことが教えられる。

『世界中を騒がせて来た者』とレッテルを貼られるくらいの

熱意が今の私にあるだろうか? ・・・問われる。



そして、順番は逆になったが

15章を見ていこう。

じつに、ここには「真理」そのものがシンプルに記されている。

救いのために、モーセの慣習エトセトラを言い出すクリスチャンに対して

ペテロが応える。

『・・・人の心の中を知っておられる神は・・・

異邦人にも聖霊を与えて

・・・それなのに、なぜ、今あなたがたは、

私たちの父祖たちも私たちも負いきれなかったくびきを、

あの弟子たちの首にかけて、神を試みようとするのですか。

私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、

あの人たちもそうなのです。』(15:8,10,11)



救いは、モーセの慣習に従うとか何かをすることによって

もたらされることはない。

ただ、ただ、主イエスの十字架の死と復活による『恵みによって』

救われることをペテロは説いた。

そして、パウロとバルナバを派遣して

そのことを伝えることにしたのだった。

ユダとシラスも遣わされた。


彼らは、異邦人たちを励まし、力づけた。

『ユダもシラスも預言者であったので、多くのことばをもって

兄弟たちを励まし、また力づけた』(32節)



救いは、至ってシンプルなのだ。

最近、難しいことばかり考えて悩んでいる私も

もうひとたび、この原点に立ち返り

励ましを受け、力を得たい。

そうして、福音宣教を日常のこととさせていただける高みに

引き上げていただきたい。




祈り

「主イエス様。

罪ある私は、あなたの十字架の死と復活そして

それによる救いを信じて救われました。

ほかには何も救われるためにはしておりませんのに

あなたは、私を救ってくださいました。

そのように、シンプルに信仰を捉え、感謝をささげ

みことばによって励まされて

信仰の高みへと、主ご自身が私を引き上げてくださいますように

お願い致します。

自分では何の力もない私です。

主ご自身が、私を支えて用いてくださいますようにお願い致します。


イエス様の御名によって祈ります。  アーメン」

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「逃げ隠れすることなく」

デボーション・ガイド「マナ」 聖書箇所  使徒の働き5:17-26


「逃げ隠れすることなく」



月の半ばからは、新約聖書からの通読である。

8月からの「使徒の働き」を続けて読む。



『使徒たちを捕らえ、留置場に入れた。

ところが、夜、主の使いが牢の戸を開き、彼らを連れ出した。

「行って宮の中に立ち、人々にこのいのちのことばを、

ことごとく語りなさい、と言った。』(18-20節)




大祭司とその仲間が妬みに燃えて

使徒たちを捕らえて牢獄へと入れてしまった。

しかし、主の使いが彼らを解放して、連れ出した。

ところがそれは、使徒たちが逃げるために

牢獄から解放したのではなかった。


『行って宮の中に立ち、人々にこのいのちのことばを、

ことごとく語りなさい。』


逃げるのではなくて、むしろ、「宮の中」という

もっとも目立つような場所に立ちなさいと

主は言われた。

みことばを宣べ伝えるためだった。



・・・そんなことをすれば

牢獄から解き放たれたとはいえ

ますます、つらい状況が待っているであろう。

再び、捉えられて、前よりもひどい目に遭わされるかもしれないのだ。


けれども、使徒たちは、宮で福音を宣べ伝える。

宮の守衛長は、群集を恐れて

このときは、使徒たちに手荒なことは出来なかった。



さて今、私の中でも

多くの問題と課題がある。

「これらの問題から、逃げたい」と思う。

こうして、聖書に励まされても、やはり逃げたい。

そんな愚かな私である。

主が私の中の問題をどのように取り扱ってくださるか

消沈せずにさらに聖書から励ましを受けて

逃げずに歩めるようにと、祈る。
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「美しさと潤いと豊かさ」

デボーション・ガイド「マナ」 聖書箇所  箴言11:21-31


「美しさと潤いと豊かさ」



・・・この夏、いつもの夏とは比較にならないくらいに

紫外線を浴びた。

主人の休みごとに、海へ出掛けたからである。

震災後、経済的に大変な私たちは

あれやこれやとレジャーを楽しむ術はなく

「そうだ!! この夏は海へ行こう!!」と思ったのだった。

車を30分も走らせれば、ビーチに着く。

飲み物をあらかじめ用意しておけば

お金のかからない『レジャー』

おかげで「貧乏だもん」と惨めになることのない夏だった。


さて、その夏も終わり

今日は9月のちようど真ん中。

日中は、まだまだ真夏日の気温だが

確実に『秋』は深まっている。


私は、このところ、洗顔するたびに肌に違和感を感じている。

ゴワゴワしてザラザラする肌。

確実に、紫外線の悪影響だ。

「エステに行きたいなー」と

ここ数日間は、そのことばかり考えていた。

さりとて、エステ費用なんてないし

美しくなるにはどうすればいいのかの試行錯誤。




さて、前置きが長くなりすぎた。

この箇所を読んでハッとする。

『美しいが、たしなみのない女は、

金の輪が豚の鼻にあるようだ。』(22節)



紫外線の悪影響が及んだ肌を、綺麗に美しくしなければならないのは

間違ってはいないだろう。

けれども、まずは、主の御前にて静まって

この夏の感謝をささげないことには

何も始まらないことを痛感した。


女性の容姿や美貌や着飾ることについては

聖書の他の箇所にも

たくさんの戒めのみことばはあるが

よりにもよって

「エステに行けば、美しくなれる」と思っていた日に

このみことばが通読箇所とは!!




『・・・人を潤す者は自分も潤される。』(25節)

私は、自分のことばかりを考えて暮らしてはいないか

そう問われた気がした。


潤いたい。

経済的な潤いが欲しいのは言うまでもないが

知性においても、教養・学力においても

人との繋がりにおいても

また、自分の家庭も幸福に潤されたい。

そのために、一生懸命にがんばってもいるつもりだ。



けれども、聖書は教えてくれる。

他人を潤す者こそが、潤いをいただける、と。


『穀物を売り惜しむ者は民にのろわれる。

しかしそれを売る者の頭には祝福がある。』(26節)



他人を潤し、惜しみなく愛を提供するときに

自分自身が潤されて、祝福される。

これは、金銭的な意味のみではなくて

「生きる姿勢」



そんなふうに、まずは主の御前に静まり感謝をささげて

そして、他者を潤していく者とさせていただきたい。


クリスチャン主婦としては

『・・・正当な支払いを惜しんでも、

かえって乏しくなる者がある。』(24節)

このみことばも、刻みたい。




祈り

「愛する天のお父様。

あなたの御名を誉めたたえます。

この夏、私たち夫婦は経済的窮乏にも関わらず

自然の恵みによって、楽しい夏を過ごさせていただきました。

そのことに、心から感謝を申し上げます。

天のお父様。あなたは、いつでも私を満たしてくださいます。

経済的困窮ばかりではなく

心が打ちひしがれているときにも、ご配慮くださいます。

それなのに神様、私自身は

みずからが潤うことばかりを願ってしまっているような気がします。

どうか、神様

人を潤すことによって、みずからが潤い

祝福をいただくことができますように導いてください。

また

主婦という立場上、いろんなことを惜しんでもしまいますが

支払うべきものは、支払い

社会的にも、忠実なクリスチャンとなっていけますように

心からお願い申し上げます。

自分では、毎日を一生懸命にがんばっているつもりでも

本当のところは、主によらなければ

何ひとつ、祝福されはしないのです。

それを肝に銘じて

主によって生きていく姿勢を崩すことのないように

弱い私を、どうか守ってください。

イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。  アーメン」



 
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「人の労苦は、主のみわざには関与できない」

デボーション・ガイド「マナ」 聖書箇所  箴言10:22-32


「人の労苦は、主のみわざに関与できない」



どんなに、どんなに頑張っても

こんなにも苦労したのだと主に訴えても

主のみわざは、「人の力」とは関係ない。


『主の祝福そのものがその人を富ませ、

人の労苦は何もそれに加えない。』(27節)


・・・まさに、このひとことに尽きる。

人の頑張りや努力でさえも

主ご自身のお働きには関与できないのだ。



私は、よくこういうことを言ったり、祈ったりしてしまう。

「私は、ほんっとに頑張った。

これ以上ないくらいに頑張った。

体を壊すほどに頑張った。

忍耐もして来た。我慢・我慢の連続だった。

嗚呼、それなのに報われない」


ときに、神様への不平となって

この言葉を使ってしまう。


「こんなに頑張ったのに、見捨てるのですか?

私は、不幸な人間なのですか」などとも言ったりしてしまう。



しかし、この箇所で神様は教えてくださる。

恵みも祝福も、人の力によってではなく

ただただ、神様からのものなのだ、と。


「救い」にしても同じことだ。

聖書をシャカリキに読んで、何時間も祈って

それで「救い」がもたらされると思っている人たちがいる。

或いは、教会の集会に熱心に行っているだとか

真面目に生きているだとか

人様から後ろ指を指されるようなことは何ひとつしていない、と

「救い」と結びつけて考えている人たちは結構、多い。



しかし、「救い」には「人のわざ」は関与できない。

ただただ、神様の一方的な愛により

主の十字架により救いは完成する。

それを信じて、初めて、人は救われる。



また、この箇所では

『正しい者と悪者』の対比が、ほとんどを占めている。



25節

『つむじ風が過ぎ去るとき、悪者はいなくなるが、

正しい者は永遠の礎である。』


『正しい者の望みは喜びであり、

悪者の期待は消えうせる。』(28節)


『正しい者はいつまでも動かされない。

しかし悪者はこの地に住みつくことができない。』(30節)




正しい者と、悪者。

何を基準に「私は正しい」と言えようか?


聖書の別のところでは

「正しい者はひとりもいない」ともある。


・・・神様の御目には、人の正しさなどは有り得ない。

どれだけ真面目に生きているかなどは

神様の御前では「正しさの基準」にはならない。


私たちは、これもまた、神様ご自身から

『正しい者』としていただくのだ。



言葉ひとつ、行ないひとつを見ても

私などは、どう考えても、類されるのは『悪者』の部類だ。

けれども

主のあがないによって、聖くしていただいた。

バプテスマによって、『正しい者』としていただいた。


それでも、なお、犯し続ける罪。

悔い改めて祈るごとに、神様は、清めて『正しい者』の認定をしてくださる。




祈り

「天の父なる神様。

真面目な性格ではある私ですが

だからといって、正しいわけでは決してありません。

言葉においても、行動においても

幾ら、がんばっても、私は正しい者にはなれませんでした。

それどころか、むしろ、悪者に類するようなあわれな者です。

けれども、主の十字架のあがないにより

このような者を、神様は『正しい者』と認定してくださいました。

そればかりではなく、洗礼を受けてからもなお犯し続ける罪さえも

悔い改めて立ち返るときに

『正しい者』としてくださっていることを感謝いたします。

ですから、今日もこうして、神様の御前にてみことばを聞き祈ることが

許されていることに、本当に、感謝致します。

『主の祝福そのものがその人を富ませ、

人の労苦は何もそれに加えない』というみことばどおり

祝福は、ただ、神様から与えていただくしかありません。

努力や苦労では、真の祝福とはなりません。

ですから、どうか神様。

この小さき愚かな者と、この家庭に

神様からの祝福が直々にありますようにと

へりくだって祈り求めます。

あわれんでください。

主の祝福を与えてくださいますように、お願い申し上げます。

今、あなたの御前に、へりくだります。

正しくない者を、正しい者と認定してくださった神様ご自身が

この者の生涯を導いてくださいますように。

また、悔い改めにふさわしい「正しい者」となったにふさわしい実を

豊かに結んでいくことができますように、お願い致します。

主イエス様の御名によって祈ります。  アーメン」


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「律法に福音が必要な理由」

デボーション・ガイド「マナ」 聖書箇所  箴言5:7-14


「律法に福音が必要な理由」



疲労と霊的スランプのために

みことばが心に灰って来なかったのが

ブログを放置してしまったわけで

まったく恥ずかしいクリスチャンの私である。


聖書箇所は詩篇から箴言へ。

『教えと戒めの書』というイメージが私にはあるが

他のクリスチャンの皆さんにとっては

『箴言』とは、どんなイメージだろうか。



この箇所 5:7-14

デボーション・ガイド『マナ』では

この箇所のタイトルが「性的不品行への警戒」となっている。


たしかに、この箇所では『性』をテーマにしている。

8節・9節・11節

『あなたの道を彼女から遠ざけ、その家の門に近づくな。

そうでないと、あなたの尊厳を他人に渡し、

あなたの年を残忍な者に渡すだろう。

そして、あなたの終わりに、

あなたの肉とからだが滅びるとき、

あなたは嘆くだろう。』



性的な誘惑に陥らないように、近づくことさえするな、と

厳しく語られる。

デボーション・ガイド『マナ』の解説には

『いったん誘惑に引き込まれてしまったなら、

いったい誰がそのわなから逃れることができましょう』

(「マナ」2011年9月号80頁)

このように解説されている。



さて、私は一人の女性の体験を知っている。

彼女は、交際している男性がいた。

二人共、クリスチャン同士であり

牧師先生にも、その交際は隠してはいなかった。

一応、二人は、将来的には結婚をと考えてもいた。

彼女の周りの女友だちは

18歳を過ぎると、次々と、性体験をしていった。

彼女は、交際しているその男性も自分もクリスチャンだし

結婚するまでは、性体験は無いだろうと思うと

友だちが羨ましい気持ちになった。

同時に、男性から魅力的に見られるためには

性的なアピールも必要なのではないかと

ふたつの思いに揺れていた。

思春期だから、その思いもわからないことはない。

彼女は、交際しているその男性から誉められることが

滅多になく、自信を喪失していた。

その男性に認めて欲しい一心で

とうとう、彼女は『性的アピール』を始めた。

最初は、単なる、気を惹きたいゆえのものだったが

男性のほうは、アッという間に

その性的魅力のとりこになってしまった。

男性は、クリスチャンであることを自覚しつつも

彼女の性的魅力には打ち勝てなかった。

彼女の体を触る、下着に手を入れる、しまいには

彼女と会うたびに愛撫してやまなくなった。

牧師先生に相談して、アドバイスを受けたりもしたが

男性は、もう、止められなかった。

彼女は、あきらめた。

「結婚するしかない」


一線は、かろうじて越えなかったものの

そんな理由で二人は結婚した。



その後、二人は何かあるたびに

「あんなことされたから結婚したのよ!!」とか

「愛撫されていなかったら、別の人と結婚できる可能性もあったのに」と

みずからの青春を嘆いた。


家庭の中で何かしらの問題や課題にぶつかるたび

「あんなことがなければ、こんな男とは結婚してはいなかった」と

結婚してことを悔いた。


男性のほうも、いざ結婚すると驚くほど性的には淡白になり

そのことも、彼女を哀しませた。


二人は、悔い改めて、結婚生活をやり直した。




この例話からわかるように

彼女は、性的アピールをすることで

自分の人格の尊厳を失った。

男性のほうは、結婚しても彼女から尊敬されない夫になった。

この結婚は『嘆き』で終わるかとも思えた。

また、この地上での生涯を終えて神様の御前に立つときに

結婚前にしたことが、神様から問われて罰を受けるのだと思うと

まさに『嘆き』だった。



しかし、二人は、過ぎ去りし青春を振り返り

神様の御前に悔い改めたのだ。

その結婚生活が変化したのはいうまでもない。



『いったん誘惑に引き込まれてしまったなら、

いったい誰のわなから逃れることができましょう』と

ガイドブックでは解説しているが

ここにこそ『福音』が必要なのだ。


みずからの弱さを認めて悔い改めるときに

福音の力が、ここに介入してくれるのだ。

例話に出した二人は『福音』に立ち返り

それによって、平安を得たのだった。



これらのことは『性的不品行』に関わらず

日常のすべてのことにおいて適用されると

私個人は、思うのだ。

戒めと教えが幾らあったとしても

みずからの力では、どうしようもないのが人間だ。

『律法』『戒めと教え』にこそ『福音の力』が有効なのだと

強く強く、思わされる。



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「私たちの齢は70年、健やかであっても80年」

デボーション・ガイド「マナ」 聖書箇所  詩篇90:10-17


「私たちの齢は70年、健やかであっても80年」



人生というものに真正面から向き合わされる箇所だ。

『私たちの齢は七十年、健やかであっても八十年。

しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。』(10節)


このみことばに、いや違う、と言える人がいるだろうか ?

私たちの人生は長くて80年そこそこなのだ。

そして

「人生の大半は、ぬくぬくしたものだった」と言える人は

どのくらいいるだろうか。



人生は、長いようでいて短い。

ましてや、永遠であられる神の御前には

無きに等しきものだ。


『それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。』(10節)



また、聖なる神の御前においては

労苦とわざわいが大半を占めたその人生さえ

決して「義を行なった」とは言えない。

人間の儚さ、虚しさ。



しかし、私たちは

そのことを師っているがゆえに、むしろ

神様の顧みとあわれみと祝福を求めて生きていくのでなければ

『人生』には、何の意味もない。



聖なる神様の力を仰ごう。

その御力のゆえに、私たちの人生を助け守り喜びある日々を

求めていこう。



『だれが御怒りの力を知っているでしよう。

その恐れにふさわしく。

それゆえ、私たちに

自分の日を正しく数えることを教えてください。

知恵の心を得させてください。』(11節)


聖なる主の御前には「人の正しさ」は通用しない。




私たちはただ、祈るばかりである。

『あなたが私たちを悩まされた日々と、

私たちがわざわいにあった年々に応じて、

私たちを楽しませてください。

私たちの神、主のご慈愛が

私たちの上にありますように。

そして、私たちの手のわざを確かなものにしてください。

どうか、私たちの手のわざを確かなものにしてください。』(15節、17節)




・・・人の人生の儚さと労苦の数々。

けれども、神様を信じる私は

「悩まされた日々に応じて楽しませてください」と

「主のご慈愛がありますように」と

「私の手のわざを確かなものにしてください」と

神様に訴え祈る特権を与えられていることに感謝。

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「なんと幸いか。心にシオンへの大路がある人は」

デボーション・ガイド「マナ」 聖書箇所  詩篇84:1-12


「なんと幸いか。心にシオンへの大路がある人は」



カレンダーが一枚あらたまり

月の前半は、旧約聖書からの恵みを受けることとなる。

先月に続いての『詩篇』で2011年の9月が幕を開ける。



この箇所を味わうときに

もはや、なんの注釈も要らないとさえ思う。

『なんと幸いなことでしょう。

あなたの家に住む人たちは。』(4節)


・・・これに尽きるとさえ思う。


主の十字架の贖いにより

神の家に住まうことになった私は

それだけで、幸いなのだ。


『まことに、あなたの大庭にいる一日は

千日にまさります。』(10節)



為すべきこと多けれど

計画事もあるけれど

『主の大庭』にて、憩わせていただくことが

すべての物事の基本となる。

ときに、日常の雑事から離れて

退いてリトリートの時間を持つことをしたい、とも

願わされる。


また、特別な場所にて『大庭に』憩うことも大切ではあるが

日常の只中に於いての『大庭』をも大事にしたい。

それは、日々の「静思の時」の確保である。


同時に、このみことばから思わされることが

もうひとつある。

『教会』というところが、また『礼拝・集会』が

『主の大庭』になることを、真剣に祈り求めていかねばならない。




今日の箇所には

信仰の旅路を生きていくための励ましもある。

『なんと幸いなことでしょう。

その力が、あなたにあり、

その心の中にシオンへの大路のある人は。

彼らは、涙の谷を過ぎるときも、

そこを泉のわく所とします。

初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。』(5-6節)



主の大庭への道が、心の中に通っているときに

たとえ、涙に暮れる出来事があったとしても

祝福の泉で潤されることを知り

幸いのうちに、人生を歩くことができる約束。



今、一度、主の御前に静まり

その大庭にて、憩いを得させていただき

心の中の主への道がふさがれることのないようにと祈る。




「愛する天の父なる神様。

あなたを賛美いたします。

主なる神様とのお交わりの中に生きることをさせてください。

慌しく、目の前のことで一杯になってしまいがちですが

主の大庭に入る特権をいただきましたから

その喜びの権利によって、大庭に憩い

たましいの回復をしたり、次への備えをさせていただいたり

何よりも、その大庭の素晴らしさを存分に味わいながら

神様を褒め称えさせてください。

気ぜわしい一日のうちにも、大庭でお交わりする時を確保させてもください。

あなたのみことばによってのみ、生かされる者であらせてください。

私の心に備えてくださった主への道から

泉のごとくの祝福が湧き出ますように。

いつでも私を主の力と愛で潤してください。

涙の日にも、主がご臨在ください。

尊きイエス様の御名によって祈ります。 アーメン」
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「ペテロもヨハネも無学な人だったが・・・」

デボーション・ガイド「マナ」 聖書箇所  使徒の働き4:13-22


「ペテロもヨハネも無学な人だったが・・・」



この箇所は

『神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、

神の前に正しいかどうか、判断してください。

私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、

話さないわけにはいきません。』(19-20節)


このみことばで有名な箇所である。

「人に従うよりも、神に従うべき」と説かれる箇所だ。



このことは、もちろんの中心的みことばであるが

今日、あえて、私は

ペテロやヨハネが、無学の普通の人であったことを取り上げる。(13節)


戒律厳しくユダヤの教え(旧約聖書)を教えたり、論じたり

裁いたりすることに熱心だった長老・祭司・学者などの前でも

堂々と語るペテロたち。

議会で問題視されても、大胆に神のみことばを語るペテロたち。


『彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、

またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いた・・・』(13節)



議会で問題視されて、厳しい言葉を浴びても

ペテロたちは、大胆に神の真意を語り続けた。

しかし、よくよくペテロたちの身の上を知ると

なんと、学問を修めてはいないという事実が浮かび上がった。



私自身も、聖書を開き、ペテロたちの言葉を読むたびに

クエスチョンマークなのだ。

「たしか、ペテロは漁師のはず・・・。弟子になったからといって

学問を習い始めたとは、聖書には載ってはいないし」



ひとつ言えることがある。

それは、真の神を信じ従うときに

必要なものは、神ご自身が与えてくださるということだ。

私個人は、たしかに聖書神学校で学んだ。

けれども

牧会や伝道に本当に必要なことは

『授業』で習ったことではなくて

その時々ごとに、与えられる神様からの知恵だった。



・・・だからと言って

神学校にて、へブル語やギリシャ語などを教わる必要は無い、と

いうわけでは決してない。

へブル語も、ギリシャ語も、聖書各論も、牧会学も、カウンセリングも

しっかりと身に付けることは大切なことだ。

神学校での学びを否定しているわけではない。


私が言いたいのは

それらのことさえも

またそれ以上のこともなお

神ご自身が用意してくださるということである。



学問を修めていない、漁師だったペテロたちが

主の昇天ののちに

伝道の働きを成し得たのは

あくまでも『神のわざ』にほかならなかった。



主の十字架を仰ぐときに

人は、大胆不敵な有能な者になり得るという生きた証を残したのが

弟子たちだった。


元来の生まれつきの性格にも関わらず

職業の種類にも関わらず

学歴や知識教養の有無に関わらず

主は、信じる人をおおいに活かして用いてくださる。

期待しよう。期待と希望をいだきながら

信仰の道を歩こう。

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「自分の力や、信仰深さによって可能になったのか」

デボーション・ガイド「マナ」 聖書箇所  使徒の働き3:10-21



生まれつき足の悪い人が、ペテロに施しを求めたが

ペテロは金銭は与えず

イエスの御名によって歩けるようにした。

人々は、驚いた。

しかし、ペテロは言う。

『なぜこのことに驚いているのですか。

私たちが自分の力とか信仰深さとかによって

彼を歩かせたかのように、

私たちを見つめるのですか・・・』(12節)



このペテロの言葉に、私は正直、驚いてしまった。


小学低学年のときから、聖書を読んで来た私だ。

当然、この箇所も、幾度も読んで来た箇所だというのに

今回、もう一度、読む機会が与えられて

ペテロの言葉に驚いてしまう、という体験をしてしまった。

「聖書」というものは、幾度読んでも、新鮮なものだ。



ペテロは 「私たちが自分の力とかではない」と言うのには

納得がいく。

しかし

ペテロは言う。

『私たちが自分の力とか信仰深さによって

彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか』


ペテロは、なんと

『信仰深さ』でもないのだ、と言っている。

このことに、驚きを感じたのだ。




私事ではあるが、震災以降、がんばって来た。

真夏の暑さの中でも、病いの中でも

「私ががんばらなくちゃ、家庭を維持できなくなる」と

節約に努め、地道に家計簿をつけて

少ない予算でも美味しい食事を作るようにと気を張り

病いの苦しみに負けそうになる自分に、ハッパをかけて

「さあ、がんばれ」と自分自身を鼓舞して来た。


8月も終わりを迎えようとしている今、

体は疲れ果てて、気力は失われ

どうやって、新しい季節を迎えようかと

途方に暮れた。


今日は、頓服薬を飲み

ベッドに横たわり

薬の副作用でボンヤリする意識の中で

半日過ごした。


無いものねだり。

失ったものを数える癖。


副作用で、もうろうとしながら

「こんなにもがんばった結果は、病床なのか」と思った。

クリスチャンである私は

もちろん、『自力』を主張しようとしたわけではない。

「信仰によって、がんばったのだ」と思った。

洗礼を受けて31年。

「私は、信仰に生きて、この震災の影響下でもがんばったのだ」と

思っていた。


主人にも、がんばれ、とハッパをかけていた。

「信仰深く生きるならば、報われるよ」と。



さて、聖書に戻ろう。

ペテロは、私とはまったく違う答えをした。

「この人が立ち直るために、信仰深く祈ったのだ」とは言ってはいない。

逆の言葉を言っている。

信仰深さとかによって彼を歩かせたと思っているの ? と

皆に問う。

信仰深さによって成し得たわざではない、と説く。



『いのちの君を殺しました。しかし、

神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。

・・・そして、このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、

あなたがたがいま見て知っているこの人を強くしたのです。』(15-16節)



このわざは、主イエス・キリストの十字架の贖いと

復活の希望によって成されたものであるのだ、と

ペテロは、十字架と復活の信仰を語る。



今、疲れ果て、気力さえなくなった私ではあるが

それでも、こうして春から夏の暮らしが守られたことは

『信仰深さ』ゆえのがんばりではなく

ただ、ただ、主の十字架と復活の恵みであることを

知らされる。


「信仰深く、がんばった」と思っていた私は、

再び、主の十字架を仰ごう。



この春と夏だけではなくて

ここまで守り導いてくださったのは

私の信仰深さではなかった。

生きて来て、信仰を持って

それでも、犯し続けてしまう罪も何もかも

主は、贖ってくださる。

私の信仰深さではないことを、あらためて思い知る。


『そういうわけですから、

あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、

悔い改めて、神に立ち返りなさい。』(19節)



知らず知らずに、己の信仰を武器代わりにしていた私。

信仰は、一方的な主からのあわれみだったことに

もう一度、立ち返り

あらたな季節を迎える。











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「欠けを補ってくださる神様」

デボーション・ガイド「マナ」 聖書箇所  使徒の働き1:13-26


「欠けを補ってくださる神様」



さて、聖書箇所は『使徒の働き』に入った。

その昔は『使徒行伝』と呼ばれていたが

改定されて、わかり易い表現となった。




イスカリオテのユダの背信により

使徒が11名となってしまったために

欠員補充の選出がされた記事が、今日の箇所である。


一見すると、なんとも思わぬ読み過ごしてしまう箇所だが

大事なことを教えられる。


それは、神様は

足らざるところを、補ってくださる神様であり

もっとも、ふさわしい補いをしてくださることを

知らされる箇所である。



候補者だったバルサバが外れてしまっただとか

マッテヤが当選しただとか

そういうことは、問題ではない。


必要は、神様ご自身が知っておられて

神様が選んでくださる、補ってくださることを

この箇所から読み取りたい。



ペテロは祈った。

『・・・すべての人の心を知っておられる主よ。

・・・お示しください。』(24-25節 抜粋)



人の心を知り、必要を知り、何がふさわしいことかも

何もかも知っていてくださる主に

私も、日々「お示しください」と祈っていこうと思わされる。



主は、欠けを補ってくださるのみにとどまらず

どの道に、誰がふさわしいのか

何をするのに、どういうことが必要なのか

すべてのすべてを、ご存知の主である。



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「世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」

デボーション・ガイド「マナ」 聖書箇所  マタイの福音書28:11-20


「世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」



マタイの福音書の最後の箇所である。


復活されたイエス様は、ご自身にすべての権威があることを

話してくださった。

また、主の弟子となる人々が起こされるように

先に救われた弟子たちを奨励する。

『あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。』(19節)


このお言葉は、弟子たちのみに語られたものとしてではなく

今、ここに生かされているすべてのクリスチャンへの

奨励のお言葉であると考えるべきであろう。


今のクリスチャン社会においては、

洗礼を施すのは牧師職に置かれた先生かもしれないが

牧師職ではなくとも

人々にイエス様のことを伝えて、洗礼に導かれるようにすることは

すべてのクリスチャンに与えられた使命だろう。



この壮大とも思える使命を与えられて

「自分には出来ない」と思ってしまう私がいる。

けれども、イエス様は、無責任な形で使命を託すことはしない。

世の終わりのときまで永遠に共に居てくださる約束をしてくださっている。



決して「自分の力やわざ」では成し得ない福音伝道の働き。

イエス様は「がんばって、己の努力で福音を宣べ伝えなさい」とは言わない。

主ご自身が、成してくださるゆえに

私たちに奨励の言葉を与えてくださっている。



『あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。

そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、

また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、

彼らを教えなさい。

見よ。わたしは、世の終わりまで、

いつも、あなたがたとともにいます。』(18-20節)




主ご自身からのチャレンジに

さあ、私は、どう応えて歩んで行こうか ?



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高橋 美穂

Author:高橋 美穂
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☆キリスト教プロテスタント福音派クリスチャン。
中学一年生のときに洗礼を受ける。

このブログでは、おもに私が読んでいる聖書からの気づきを綴ります。

いのちのことば社 デボーション・ガイド「マナ」を
使用しての聖書日課ブログです。
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